Giornico ジョルニコ − 歴史と文化と保養の町
スイスの小イタリア・ティチーノ州の中心で

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歴史


ジョルニコの歴史はレヴェンティーナ谷、ティチーノ州、ロンバルディア、ゴッタルド峠、スイスと様々な地域に分散して組み込まれてきました。ここではそれらを統一して1つの歴史の流れにまとめて時代を追っていくよう努めてみます。


先史時代

レヴェンティーナ谷で最初のわずかな人類の形跡が確認されるのは新石器時代(紀元前5000年-1800年)のことです。その後鉄器時代(紀元前700年)にはまとまった数の集落が確認されています。
先史時代のジョルニコ一帯では既に防護施設の跡が見つかっています。谷の右手側の岩壁の「カスラスク」という遺跡には、巨大な岩や石のブロックを積み上げて作られた何メートルもある防護壁が残っています。これは先史時代のスイスで最も意味のある史跡ではないかと考えられています。

ローマ帝国

レヴェンティーナ谷への人類の移住はロンバルディア地方から始まりました。当時ここに住んだレポンティエール族がレヴェンティーナという名前の起源になったと言われています。紀元前200年頃、ローマ軍はレヴェンティーナ谷の南部に侵攻します。紀元前25年には北部もローマ帝国の支配下に入ります。皇帝アウグストゥスとクラウディウスは、ヴァリス・ポエンニーナ地方とレーティエン地方を統一してローマ・アルペン共和国を立ち上げます。ローマ軍はフルカ山道(ウーリ州)とオーバーアルプ山道(グラウビュンデン州)を切り開きますが、ショレネン峡谷(ゴッタルド峠を挟んでティチーノ州とウーリ州をつなぐ難所)を超えることはできませんでした。彼らのアルペン越えルートは西は大サン・ベルンハルト(ヴァリース州)、東はシュプリューゲンとセプティマー(グラウビュンデン州)に限られていました。


キリスト教化

アンブロシウス司教(340-397年;ミラノの司教で司牧、護教、教会聖歌の革新に功績を残した。)のもとでロンバルディアを起点にティチーノ地方の南アルプスの各谷でキリスト教化が進められました。アンブロシウス派の50の教会教区は今日でもこの司教の名前を掲げています。


ランゴバルド人とカール大帝

紀元600年頃、ゲルマン民族の一部族であるランゴバルド人が南部からアルプスの谷へ侵入してきます。しかし彼らは歴史的に後に繋がる形跡を残すことはありませんでした。
774年にカール大帝がランゴバルド人最後の王デジデリウスを倒すと、ティチーノ地域はカロリング朝のフランク王国の一部となり、様々な支配者のもとに置かれます。
カール大帝時代からホーエンシュタウフェン朝(8-12世紀)までの間、ティチーノとその他今日のスイス領土は全て神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)の領土でした。


ヴェルチェッリの司教アット

10世紀、アンブロシウス派の3つの谷、すなわちブレニオ谷、レヴェンティーナ谷とリヴェラ谷はヴェルチェッリ(北イタリア、ピエモンテ、ミラノとトリノの中間あたり)の司教アットの家系の支配下にありました。三渓谷はカロリング朝に分散された領土の1つであったと考えられます。948年、司教アットは遺言を作成し、3つの谷全てをミラノの司教座聖堂参事会に寄贈します。ここから三渓谷の支配が確定されたのでした。
現在ジョルニコに残っている史跡のアットの塔という名前もこの司教に由来します。この塔はジョルニコに残る有史上最古の建造物ではないかと言われています。


ジョルニコの領主

11世紀頃、ランゴバルド族の血統だと思われる無名の一族がジョルニコに定住を始めました。彼らの住居は現在のカステロ・ディ・サンタマリア教会であったと推測されています。この一族とミラノの司教座聖堂参事会の間には緊張と闘争が絶えませんでした。ジョルニコのベルナルドは1160年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ一世(赤髭王、バルバロッサ)の信奉者と結んでレヴェンティーナに皇帝派の結社を作り、その代表となります。ベルナルドは封建領主の権限の代行者に任命され、1170年にはレヴェンティーナを封土として与えられます。フリードリヒ一世の躍進の元、ジョルニコは1175年頃レヴェンティーナにおいて領邦君主の座を得る目前にありました。しかしバルバロッサが1176年のレニャーノの戦いで大敗するとジョルニコの前進も止まります。ベルナルドはミラノの司教座聖堂参事会に屈服しなければなりませんでした。ベルナルドの家系の者は13、14世紀になってもレヴェンティーナの重要な役所で地位を占めていましたが、一族の独立した立場はもう見られませんでした。


ミラノの司教座聖堂参事会

既に述べたように、10世紀のレヴェンティーナはミラノの司教座聖堂参事会の支配下に置かれていました。1176年にジョルニコのベルナルドがミラノの司教座聖堂参事会に屈して以来、ジョルニコは教会の重要な中枢として発展します。サン・ニコラオ、カステロ・ディ・サンタ・マリア教会、サン・ミケーレ教会が相次いで建てられたのもこの頃です。司教座聖堂参事会の支配はヴィスコンティ家が統治権を引き継ぐまで継続しました。


ヴィスコンティとスフォルツァの統治

14世紀になるとミラノのヴィスコンティ家が権力を握ります。ミラノ人はベリンツォーナの谷の堰堤を重要視したので、ジョルニコの建造物はミラノの領邦国家において次第に意義を失います。ジョルニコのカステロは15世紀にはもう使用されなくなっていたと考えられます。


解放運動

1182年に既にブレニオ谷とレヴェンティーナの一部では外国勢力支配に対する不満が高まっていました。クルテロにあった城塞は谷の住人の手で壊されました。その後も解放運動は細々と続けられ、1290年には再びレヴェンティーナで自由を求める声が高まりました。


スイスとレヴェンティーナ

13世紀初頭にショレネン峡谷が切り開かれると、ゴッタルド峠はアルペン越えの基本ルートになりました。これがスイス連邦建国の重要な発端です。同時にレヴェンティーナは当時のヨーロッパの政治の渦に巻き込まれていきます。

始めは、レヴェンティーナとゴッタルド峠の向こうのウーリとウルス谷の住民の間には、気楽で散発的な関係が築かれていきました。レヴェンティーナ北部の集落オスコには1237年に由来する最初のゴッタルド峠間の流通の定款が残されています。

(左:ウーリ州の荷物運搬組合の1363年の規約、右:1500年頃の冬のゴッタルド山道)

1331年、スイス(ウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンの原始三州)は、レヴェンティーナがゴッタルド峠ルートの円滑な物資流通を妨げるとして、レヴェンティーナに最初の戦争を仕掛けます。スイス軍は当時ジョルニコ周辺まで進軍し、北部のアイロロ、クイント、ファイドーで略奪を行いました。

この時期、ミラノ勢もレヴェンティーナへの圧力を強めていきました。そのためレヴェンティーナは1403年、スイスに援助を求めます。その代償にウーリ州とオプヴァルデン州が全レヴェンティーナを統治し、ベリンツォーナまで支配の手を伸ばすことになりました。

1422年のアルベド(ベリンツォーナ郊外)の戦いで、スイス軍はミラノ軍に徹底的に敗北します。これによりレヴェンティーナ谷は北部ゴッタルド峠の山道一帯まで、再びミラノ勢力の支配下に納まります。

1439年、スイス軍は再びレヴェンティーナに侵入します。1441年、ウーリ州はミラノの一公爵の借金の形としてレヴェンティーナを担保にする外交を試み、これに成功してミラノとの間に和平条約を結びレヴェンティーナは担保としてウーリに属することになりました。


1478年 ジョルニコの戦い



ウーリ州は1467年にミラノの公爵ガレアッツォ・マリア・スフォルツァと和親条約を締結しました。その中にはミラノはレヴェンティーナから撤退し、谷はウーリ州の監視下に置かれること、またレヴェンティーナにおける関税の自由化の保証などが約束されていました。しかしミラノ側はこの条約を守らず、条約違反、摩擦、国境での争いが次第に増していきました。スフォルツァ公爵は1476年に暗殺された後も状況は改善されず、ロンバルディア人はあらゆる抜け道を使って和親条約を放棄し続けました。1478年の秋、ミラノにあるウーリの公使館使節は、冷たいあしらいや罵倒を浴びせられ本国に送り返されることになりました。

ウーリにはもう武器を取る以外、選択肢がありません。1478年11月14日、ウーリは大軍を率いてゴッタルド峠を越えにかかります。スイス連邦の州代表者会議は11月16日にこの既成事実を通達され、同盟州は共に戦う義務を守らなければなりませんでした。

1478年11月下旬、割り当てられたスイス同盟軍がゴッタルド峠を越えてきます。8000人の兵がベリンツォーナ近郊に集結し、町を包囲して壁を築きました。しかしスイス同盟の指揮者達(ハンス・ヴァルドマンとアドリアン・フォン・ブーベンベルクを含む)はこの共同戦線には含まれていなかったため、ベリンツォーナの征服には至りませんでした。

驚いたミラノ勢はベリンツォーナ解囲のための救援部隊を組み、12月14日に1万人の兵がポンテ・トレーザ(現在のイタリアとスイスの国境)に集結し、チェネリ山、ジョリオ山道を通りロカルノ経由でベリンツォーナに向けて進軍を始めます。

その間スイス軍は内部での意見の不一致と士気の低下で後退を始めていました。クリスマスには前衛は既にゴッタルド峠を越えて郷里に戻ってしまいます。

スイス同盟軍が去ってしまうと後にはたった175名の谷の衛兵のみがレヴェンティーナに残されました。内訳は100名のウーリ出身兵、25名のルツェルン兵、25名のチューリヒ兵と25名のシュヴィーツ兵です。これに400名のレヴェンティーナ人が加勢して、結成された小さな一団が、後にこの出征の名誉を回復することになります。

ルツェルンのフリッシュハンス・タイリングの指揮の下で小隊はジョルニコに潜伏します。前方の集落ポレッジョでは敵軍の到着を知らせるために何人かの男がバリケードを築きました。

ミラノの指導部はレヴェンティーナを再び支配下におさめるためにゴッタルド方面に進軍する命令をベリンツォーナ解囲軍に下します。ところでこの時期は雪と氷で地盤が非常に危険なのですが、そのことは考慮されませんでした。

1478年12月28日、ミラノの1万の軍隊はマルジリオ・トレッロの指揮の下で全長6キロメートルにもなる隊列を組みレヴェンティーナ谷へ進軍します。スイス軍は前日に既に作戦としてバリケードを解除していたので、何も知らないミラノ軍は悠々とボディオ村、ペルソニコ村を通過して谷の中心部まで行進を続けます。

ミラノ大軍の先頭がジョルニコに到着すると、隠れていた600人のスイス軍が突如姿を現し、ミラノ軍に奇襲を仕掛けてきました。ミラノ軍は狭くなったジョルニコ周辺の谷の地形と、冬の寒さで凍りついたティチーノ川の足場の悪さで身動きが取れません。スイス軍は逆に立地を有効に利用して優位に立ちます。ミラノの兵士と馬と荷車が入り乱れる中で少数のスイス兵は実に身軽に立ち回ることができました。混乱したミラノの軍勢は退却を始め、スイス軍はこれを後押しし、ついにレヴェンティーナ谷の入り口のビアスカまで敵軍を押し返すことに成功します。ミラノ軍の死者は1400人、対してスイス側は50人ほどの兵を失っただけで、スイスとレヴェンティーナの連合軍の斧と槍は大勝利を収めたのでした。戦いで指揮を執ったジョルニコ出身のフリッシュハウス・タイリングとカピターノ・スタンガは彼らの部隊の兵士と共にこの勝利を盛大に祝い、また多くの戦利品を獲ることができました。

ジョルニコの戦いは後の南スイスの政治外交において重要な試金石となりました。ミラノは1480年にレヴェンティーナを永久放棄するとの声明を発表します。ミラノの司教座聖堂参事会は既に100年以上前の1353年から、宗教精神の面のみにその権力行使を限定されていたのでした。


封建領主ウーリ州

1480年から1798年までの間、レヴェンティーナはウーリ州の管轄下にありました。最初のうちは行政と軍事においてレヴェンティーナ人にかなりの自由が認められていましたが、ウーリ州は次第に権力を強めレヴェンティーナの権利を狭めていき、17世紀にはレヴェンティーナは事実上ウーリ州の属国のようなものでした。そのため谷の住民は自由権を奪われたとして1676年にウーリ州、特に管轄領主カスパー・プランツァーに対して反乱を起こします。

(レヴェンティーナ地図、1681年)

1755年には再び大規模な反乱が起こり、レヴェンティーナ人はウーリの管轄領主をファイドーから追い出して、更にウーリ州のウルゼレン谷に侵入します。しかしウーリ側は1000人の兵にルツェルンとウンターヴァルデンからの援軍を加えてレヴェンティーナに反撃し、反乱は失敗に終わります。反乱の指導者であった隊長オルズィ、旗手フォルノと市参事議員サルトリはファイドーで斬首刑になりました。

しかしウーリ州は1798年3月14日、ナポレオンの制圧の下でレヴェンティーナを手放すことになります。


ナポレオン時代とヘルヴェティア共和国

1799年4月、谷の住民は反ヘルヴェティア運動を立ち上げ、これが戦時体制化します。5月1日、レヴェンティーナはフランスに宣戦布告し、一軍隊をベリンツォーナに進めて城塞を占領します。彼らは5月9日に120人でフランスの司令官ニコラ・ジャン・ド・デュ・スールトに攻撃を仕掛けました。反乱軍はその後もホスペン谷やゴッタルド峠で戦闘を続けますが最後は30人の死者を出して退却せねばなりませんでした。

1799年5月23日、南方から皇帝派がオーストリアとロシアの軍とともに侵入してきます。9月21日から24日にかけてロシアのスヴォーロフ元帥は2万1千人のロシア兵、4千5百人のオーストリア兵、5千頭の馬とロバに乗せた45門の大砲を率いてレヴェンティーナを北方へ向けて通過しました。(歴史的なスヴォーロフ元帥のアルプス越え)
 

ティチーノ州

1803年、レヴェンティーナはスイスに新たに同格として加わった6州の1つ、ティチーノ州の中の8地域の1つとして認められました。ウーリ州は1814年にレヴェンティーナを自州の領土だとする布告をしますが、ティチーノ州政府は早急に反応し、スイス連邦の郡長、州代表会議と外国大使のの介入を要求します。ウィーン会議が1815年にこの谷の所属を争う政治の綱引きに終止符を打ち、レヴェンティーナは永久的にティチーノ州に属することが決定されました。


レヴェンティーナ出身の連邦内閣閣僚

レヴェンティーナ谷は多くの才能ある政治家を輩出する土地のようです。1848年にスイス連邦議会が発足して以来、少なくとも4人の内閣閣僚がレヴェンティーナから送り出されました。

ステファノ・フランチーニ (1796-1857 ボディオ出身、スイス工科大学、スイス統計庁の発足に貢献)
ジュセッペ・モッタ (1871-1940 アイロロ出身、内閣総理大臣、副総理大臣を務める)
エンリコ・チェリオ (1889-1980 アンブリ出身、内閣総理大臣、副総理大臣を務める)
ネッロ・チェリオ (1914-1995 クイント出身、内閣総理大臣、副総理大臣を務める)

年表
紀元前800-500年 鉄器時代初期(ヒッタイト文化)、最古のゴラセッカ文明の人類の形跡がレヴェンティーナに現れる
紀元前500年- 鉄器時代後期、レポンティエール文化
紀元前25年 レヴェンティーナ(レポンティエール族)のローマ化、アウグストゥス帝がヴァリス・ポエニーナ地方とレーティエン地方を統一
600年頃 ゲルマン民族のランゴバルド人が南からレヴェンティーナ谷に侵入
774年 カール大帝がランゴバルド人最後の王デジデリウスを破り、ティチーノ全土がカロリング朝フランク王国の領土となる。以後度重なる支配者交代
8世紀-12世紀 カロリング朝絶頂期
948年 ヴェルチェッリの司教アットがブレニオ、レヴェンティーナ、リヴィエラの3渓谷をミラノの司教座聖堂参事会に寄贈
962年 歴史書物に始めてジョルニコの名が現れる
11世紀 カステロ・ディ・サンタ・マリア教会の住居としての最初の建設始まる
ミラノの司教座聖堂参事会の下でジョルニコの領主は基本統治権を持つ
1160年 ジョルニコのベルナルドがフリードリヒ1世と結んでレヴェンティーナに皇帝派の結社を結成、その党首となる
1170年 ベルナルドは神聖ローマ皇帝からレヴェンティーナを封土として約束される
1175年 フリードリヒ一世の躍進の元、ジョルニコはレヴェンティーナにおいて領邦君主の座を得る目前であった
1176年 バルバロッサがレニャーノの戦いで大敗、ベルナルドはミラノの司教座聖堂参事会に屈服
12世紀
1168年 / 1210年
サン・ニコラオ教会が12世紀初頭に建設される。銘は1168年、言及されるのは1210年
1210年 サン・ミケーレ教会についての最古の記録
1210年 ティロロ集落(アルティロロ)についての最古の記録
1227年 レヴェンティーナには10の村落があった。その1つがジョルニコである。ジョルニコに属する集落はアンツォニコ、カヴァニャーゴ、ソブリオ、ボディオ、ペルゾニコ、ポレッジョである。10人の議員がファイドーの地方議会に送られた
1230年頃 ショレネン山道開通。ゴッタルド峠が南北アルプスを結ぶ最も重要なルートとなる
1232年 ジョルニコはこの頃ズルニンゴと呼ばれていた
1237年 オスコで最初のゴッタルド峠間の流通の定款
レヴェンティーナは包括的でよく整備された通商の基盤となる
12世紀 /13世紀 ジョルニコの城塞、カステロ・ディ・サンタ・マリア教会が12世紀頃に建てられる。外側を取り囲む城壁の増築も行われる
1311年 村落がゾルニコという名前からジョルニコという名前に変更
1311年 フーゴ氏がアットの塔の所有者であった
14世紀 峡谷会議がアットの塔を議事堂とする
1331年 スイス同盟軍が初めてレヴェンティーナに進軍。理由はレヴェンティーナによるゴッタルド峠ルートの円滑な物資流通の妨害。スイス軍はジョルニコまで侵入、途中北部のアイロロ、クイント、ファイドーで略奪を行う
1331年 コモの平和条約で事態収拾
1335年頃 ヴィスコンティ家がミラノ市国の新しい支配者として3つの谷ブレニオ、レヴェンティーナ、リヴェラを併合。レヴェンティーナ住民はヴィスコンティ家の強大な政治圧力の下で苦しむ
1345年 カステロ・ディ・サンタ・マリア教会とサン・ペレグリーノ教会が司教ローランドにより聖別される
1353年 ミラノの司教座聖堂参事会は未だレヴェンティーナで宗教的な絶対支配権を行使
14世紀 カステロ・ジョルニコの増幅工事
1403年 ウーリ州とオプヴァルデン州にヴィスコンティの支配に対する援助を要請。しかしこの2州がレヴェンティーナ谷をベリンツォーナ一帯まで占領する結果になる
1422年 アルベドの戦いでミラノ軍がスイス軍を撃破し、ゴッタルド峠までのアルプス一帯を再び占領下に置く
1439年 スイス軍が再びレヴェンティーナに進軍
1441年 ウーリ州がレヴェンティーナに手を伸ばす。ミラノ和平条約で谷は15年間ウーリの担保となる
1467年 ウーリとミラノのガレアッツォ・マリア・スフォルツァ公爵との間で締結された和平条約によりミラノはレヴェンティーナから撤退
1478年 ジョルニコの戦い。ウーリ州とスイス同盟はミラノの条約違反に対して8千の兵を率いてレヴェンティーナに進軍、しかし交戦することなく味方同士の仲違いで12月にはゴッタルド峠を越えて退却。残された200名弱の谷の衛兵に400名のレヴェンティーナ人が加わり、12月28日に攻めてきた1万人のミラノ軍勢に対して輝かしい勝利を収めた
1480年 ミラノはレヴェンティーナを永久放棄
1480年-1798年 レヴェンティーナはウーリ州の封土となる
14世紀 ジョルニコにロマネルク様式の橋が作られる
15世紀 レヴェンティーナは独自の印章を使っていた
15世紀 ゴッタルド峠の郵便配達道が整備され、年間1万人の人間と900頭の荷運び動物が往来
1518年 ジョルニコの城塞設備はウーリの要求により取り壊される
1553年 ジョルニコに兵器庫が完成。スイス同盟の12の自治体の共同所有であった
1560年以前 ゴッタルドからジョルニコへ通じる道はキロニコからサン・ペレグリーノを通る旧山道
1560年以降 ビアスキーナを通る新山道開通。関税率も増加
1567年 枢機卿カルロ・ボロメオの3渓谷教区訪問
1570年 自治体の名前が正式にジョルニコとなる
1588-89年 スタンガ家の壁に名家出身の訪問者たちの紋章が描かれる
16世紀 サン・ペレグリーノ教会に豪華な絵画装飾が施される
1615年 チューリヒの商人がレヴェンティーナへ定期飛脚便を整備
1630年/31年 サン・カルロ礼拝堂がペスト終息を祝い建設される
1644年 サン・ミケーレ教会に新聖堂が建設される
1646年 ウーリの管轄領主に対して小規模な反乱頻発
1676年 文書で保証された自由権の侵害を理由にウーリに対して新たな反乱
1680年/82年 サン・ロレット礼拝堂の建設
17世紀 ゴッタルド道に伝馬制度ができる
1755年 ウーリの圧政に対してレヴェンティーナで大規模な反乱、ウーリはこれを制圧し、反乱軍の4人の指導者を処刑
1787年 サン・ミケーレ教会の身廊の新築
1798年 ウーリはナポレオン支配の下でレヴェンティーナに自治権を与える。ヘルヴェティア共和国憲法議会はレヴェンティーナを新設州ベリンツォーナの一部とする
1799年 レヴェンティーナはヘルヴェティア政府に反抗、5月1日にフランスに宣戦布告、しかし各地で敗北。ロシアのスヴォロフ元帥がレヴェンティーナ経由でアルプス越え
1803年 レヴェンティーナは新設州ティチーノに属する8つの地域の1つとなる
1814年 ウーリ州がレヴェンティーナを自州の領土だと布告、スイス連邦の郡長、州代表会議が介入
1815年 ウィーン会議によりレヴェンティーナは永久にティチーノ州の領土であることが確定
1818年 谷の南方からジョルニコへ通じる新しい道路が完成
1820年 当時1万6千人の人間と2万1千頭の荷物運び用の動物がゴッタルド道を通行した
1830年 ジョルニコからゴッタルド山道への新しい道路が開通、伝馬と荷物用の動物は駅馬車と荷馬車に置きかえられた
1842年 ゴッタルド郵便馬車の黄金時代の始まり:5頭立ての10人乗り馬車
1846年 アットの塔が部分的に崩壊し、修復が行われる
1847年 ウーリ州とヴァリース州に対する特別同盟戦争にレヴェンティーナとティチーノが参戦
1849年 スイス国営郵便がこれまでの各州の郵便局に代わって郵便事業を統一
1861年 サン・ミケーレ教会の鐘塔の建設
1872年-82年 ゴッタルド鉄道の工事:ビアスキーナの3段ループは難航
1882年 ゴッタルド鉄道開通。駅はジョルニコの中心から3キロ離れたところ。ゴッタルド郵便馬車は操業停止
1920年 ゴッタルド鉄道が電気機関車導入、ジョルニコの変電所と新しい駅が運転開始。
駅と村を結ぶアーチ状の橋の聖別
1947年/1961年 サン・ミケーレ教会の修復工事
1937年 ジョルニコの戦いの記念碑が建てられる
1940年-45年 サン・ニコラオ教会の修復工事
1954年/55年 カステロ・ジョルニコの発掘作業
1976年/77年 スイス国鉄の古い鉄橋がコンクリートで建て直される
1980年 ゴッタルド・トンネル開通
1984年 アウトバーンA2キジョーニャ、ジョルニコ間の開通
1985年 アウトバーンA2ジョルニコ、ビアスカ間の開通

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